top of page

​蓮如上人について

本願寺の第8世宗主であり、本願寺中興の祖と呼ばれます。文明3年7月27日~文明7年8月21日まで、吉崎に滞在され、北陸に浄土真宗のみ教えを広められました。

①名号本尊の授与と

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句にて仰せられ候ふ」

「物をいへいへと仰せられ候ふ。」

「仏法をばただ、寄合い寄合い談合申せのよし仰せられ候ふなり」(『蓮如上人御一代記聞書』)

吉崎時代の蓮如上人は、御染筆(自筆)の六字名号(南無阿弥陀仏)を、本尊として人々に授与されました。また、それぞれの村、集落で集まってお参りし、み教えを語り聞きあう場、“講(こう)”を作っていかれました。当時は、仏壇はありません。今で言う床の間のような場所に、敷物、台・香炉・仏花を設えお参りされました。しかし、それが出来るのは、比較的生活に余裕のある一部の人(乙名、名主、年寄り)だけであります。蓮如上人は、そういった人々にご本尊を授与される中で、家族でお参りすることをだけでなく、各村、共有のご本尊をもち、当番の家に持参して法座を開くよう勧められました。「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」というお言葉は、何度でも法座を開き、皆で聞き語れというお言葉であります。どれだけ丁寧に扱っても、御軸を開き閉じ繰り返していったら傷んでいきます。お聖教も手垢がつき、傷んでいきます。しかし、ご本尊・お経が大事だからと箱の中に入れっぱなしでは、意味はないということでしょう。こうした、草の根的な法座活動によって、浄土真宗の興隆はなされのでありました。現在でも、福井県嶺北地方だけで、130以上の常設の道場があり、集落の単位で行われる講は、それ以上あります。550年にわたって、御門徒方が、御法座を続け、蓮如上人のこの御言葉を護っていらっしゃいます。寺院・僧侶のみで成り立っているのではなく、御門徒方がお念仏を喜ぶこの姿勢そのものが、本願寺の根幹であり、蓮如上人が最も大切にされた姿でありました。

 

②正信偈と三帖和讃の開版

右この三帖和讃、ならびに正信偈、四帖一部は末代興隆の為に、版木これを開く者なるのみ。(『三帖和讃末尾』)

『正信偈』とは、親鸞聖人が著された『顕浄土真実教行証文類』の「行巻」にある漢讃の偈(漢文で書かれたうた)であります。和讃とは、経典と、浄土の教えを伝えられた高僧方の教えを、日本語に翻訳し和語で作られた、うたの形のお聖教です。「浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃」の3つで、『三帖和讃』と呼びます。蓮如上人は、これを開版(木版刷りで製本し、人々に授与する)され、朝夕の日常のお勤めと定められました。蓮如上人以前、本願寺では日常的には『六時礼讃』などが用いられ、専門的な研鑽を積んだ者しか出来ないお勤めがなされていました。本願寺第七世、存如上人の頃から「正信偈、三帖和讃」を、抜き出して書写することはありましたが、日常のお勤めとして定め、且つ、木版刷りで、僧侶も一般の者も、共に同じものをお勤めするようにされたのは、非常に革新的な事でありました。組織内では、止めるよう進言する者もあったかもしれません。というのも、まず、それまでは、真宗寺院にかぎらず、儀式・勤行を、僧侶にのみ許された特権とすることによって、寺院の優位性が担保されてきました。また、当時、お聖教を手にするには、書写せねばならず、その書写の許可こそが師弟関係の成立を意味し、本願寺教団において、これは宗主の特権でありました。しかし、蓮如上人は、そういった上下関係や権威によって、本願寺が維持されるべきではないとお考えになりました。

「あながちに出家発心のかたちを本とせず」(『御文(御文章)一帖二通』)

僧侶もそうでない者も、等しく仏の子として大悲を蒙る身であるを知り、親鸞聖人の遺弟として等しく御教えを聞いていけるよう、開版されたのありました。現在でも、本願寺は僧侶も御門徒も、朝夕、このお勤めをし、御教えを喜んでいます。

 

③御文による文章伝道

『御文』を御作り候ひて、「雑行をすてて後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。

(『蓮如上人御一代記聞書』)

伝道の手段として最も効果的なものは、直接、語り聞かせることであります。しかし、室町時代、特に応仁の乱と呼ばれる乱世。広範囲にわたってこれを行うことは、至難の業であります。治安という意味で、現代とは全く違います。当時の法律は、惣村にある掟や、律令制度を維持するための法律ではあっても、一人一人の生命と財産を守る様なものではありません。警察機構も同じであります。また、吉崎は越前加賀の国境地帯であり、いくさの火種が絶えない場所でありました。蓮如上人は、このような中でも、積極的に伝道に歩まれますが、その御身体は一つ。どうしても行動が制限されます。また、直接語り聞かせる伝道にも短所はあります。どれほど分かり易く、ありがたい話であっても、時間の経過によって忘れられていきます。また、伝言ゲームによって教えが間違って伝播していく恐れもあります。その問題を解決する手立てが「御文(御文章)」でありました。浄土真宗の広く深い教えを、短く、また誤解をせぬようにと、手紙の形で記されたものです。そして、その村に、字が読めるものが一人でもいれば、そこに送り、「法座を開き、これを皆に読み聞かせなさい。内容について話し合いなさい。分からないことがあればいくらでも尋ねなさい。」と、まさしくご自身の分身として広く届けられました。現存する御文(御文章)252通のうち、年紀がはっきりしているものは184通。

その約半数にあたる、85通が吉崎時代にお書きになったものです。ご自身、足の甲に出来た草鞋の跡が生涯消えないほど、吉崎から北陸全体にわたって歩まれ、直接人々にみ教えを伝えられたと同時に、御坊でお休みになる時も惜しまれ御文(御文章)をお書きくださいました。吉崎でのご布教の激しさが伺えます。

bottom of page