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 吉崎について

 

<吉崎について>

現在(2022年)あわら市吉崎は福井県の最北端に位置した自然豊かな場所です。また隣接する石川県加賀市吉崎もあり、こちらを加賀吉崎と呼んでいます。両県にまたがる土地を持っている家もあります。

第二次大戦前には役場、小学校、駐在所、医院、薬局、醬油店、酒造店、菓子屋、魚屋、旅館、売店、映画館、民宿、質屋などがあり、大変賑わっておりました。時代の移り変わりの中、人口は減り、商店もわずかになっていますが、地域の方々は、蓮如さんゆかりのこの吉崎に誇りをもってまもっています。

ちなみに、今でも、蓮如上人を地元では親しみを込めて「蓮如さん」とお呼びしております。

<吉崎の背景>

蓮如さんが吉崎へお越しになる文明3年(1471)5月の少し前、この頃は応仁の乱が始まり、戦乱によって幕府の権威は落ち、国が大きく乱れました。

近江を中心に三河・吉野と布教された蓮如さんは、御門徒方が安心して御教えを聞いていける教団とするために、越前国(福井県)の北端にある吉崎に来られました。

なぜ吉崎を選ばれたのかには、いくつか理由があります。

ひとつは、蓮如さんより20才年上の従兄弟にあたる興福寺大乗院門跡の経覚さまの所領が吉崎であったことでした。また、本願寺の有力寺院であった本覚寺が、その税収管理にあたっていたことがあげられます。経覚さまにとっても、若い時から親交があり信頼していた蓮如さんが吉崎に来られることは歓迎されることでした。

しかし、大きな問題がありました。吉崎は越前加賀の国境地帯であり、紛争の火種が燻った場所であります。いざ戦となった時に蹂躙されるおそれがありました。

その問題の解決法となったのが、この土地の名主であった大家彦左衛門(吉久)の寄進であります。蓮如さんの要望に応え、自身が所有していた千歳山(御山)を寄進します。

蓮如さんは、各地から集まった御門徒とともに山上を整地し御坊を建てました。三方を海にかこまれ、外敵から攻めにくくこちらから守りやすい、天然の要害となりました。

戦乱の中にあっても、独立し御門徒の安全を守れる場所が、はじめて生まれたのです。

これが、吉崎御坊であります。

そして更にこの外周に濠を掘って外敵にそなえました。これは、国内で初めてとなる寺内町であります。現在のように法整備がなされておらず、警察機構も十分でない世

にあって、そこに住む人たちはどれほど安らいだでしょう。そのため吉崎には商人達も集まってきて、当時最大級の宗教都市が実現しました。

蓮如さんが吉崎にお越しから、退去までのわずか4年の間で吉崎を中心に北陸地方全体が劇的な変化を遂げたのです。

 

<蓮如忌(御忌)について>

江戸時代以降吉崎の行事として4月に蓮如忌が行われ、地元では昔から御忌(ぎょき)と言い伝えられております。東西分派後大谷派の寺院がなかったため、真宗大谷派の本山(真宗本廟)が蓮如さんの絵像を預かり年に1度地元吉崎へ返します、との事で10日間にわたり蓮如さんの御苦労を偲び歩いて京都の本山から吉崎へ御戻りになられます。

現在でも多くの方々が「蓮如さんが戻られた、吉崎に帰ってきた」と涙を流すなど心から蓮如さんの御帰りを待つ方がいらっしゃる光景を目にしますと、どれだけこの地元の方々に蓮如さんが愛されていたかが伝わります。

現在では自動車や公共交通機関が発達しているため京都から吉崎までは余り遠く感じられませんが、数十年前まではまだ整地された道はなく山を越え谷を越え命がけで全国各地よりお参りの方がこの吉崎にお越しになられました。

今でも蓮如忌(御忌)の期間は東西別院下に屋台が並び賑わいを魅せています。この伝統ある御仏事(御影道中)は340年以上、どんな状況であっても続いてまいりました。

近年、コロナ化での規模縮小などはありますが、毎年絶えることなく今日まで引き継がれています。

 

 

<最後に>

是非一度「吉崎」へお参り頂きたいと思います。

「吉崎御坊御開創550年記念法要」実行委員会、並びに蓮如さんを大切に思う吉崎住民一同が心よりお待ちしております。

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